猪飼野地域のあらまし

sinyoung2006-07-01


猪飼野の地名は、日本書紀仁徳天皇十四年の条に「猪甘(いかい=猪飼)の津に橋わたす。その処をなづけて小橋という」と記すところの“猪甘の津”に由来する。これは日本最古の橋の記述として有名な記事である。
この猪甘津の橋は、江戸時代、鶴が多く飛来したために名付けられた「鶴之橋」の場所にあったとされており、「鶴之橋」は、大阪の東部を南北に流れる平野川、古名百済川に架けられたもので、近代における鶴橋村(1889年)・鶴橋町(1902年)・鶴橋駅などの名前のルーツとなっている。
 上記の「猪甘」は猪飼、猪養と同義で「猪」を飼育する猪甘部が居住した地とされている。この「猪」については野生のイノシシではなく大陸で家畜化されたブタが渡来人と共に船で渡って来たのであろうとされている。
猪飼野”の地名は現在の地図にはないが、JR鶴橋駅桃谷駅の東方、平野運河の両側一帯あたりがおおよその位置である。
現在猪飼野には韓国・朝鮮の足跡が多く残しているがそれについて幾つか紹介したい。

(1)まずは比売許曾神社である。この神社の場合は近鉄鶴橋駅から北東の方面に歩いて約5分のところである。ビートたけし主演の「血と骨」はこの近くを舞台とした作品である。この神社は朝鮮神社、渡来系神社の代表的なものとされている。
祭神は赤留比売(アカルヒメ)、スサノオ仁徳天皇、用命天皇であるが主な祭神はアカルヒメである。このアカルヒメは新羅の王子アメノヒボコと夫婦であったが夫アメノヒボコのわがままに耐えかね日本に逃げていた。それを追いかけたアメノヒボコは北九州→瀬戸内→難波へとやってきたとされている。
 このことは『アメノヒ(天に輝く太陽)ボコ(鉄製武器)』を中心とする一族が朝鮮の先進文化技術を持って渡来し、それらの地方で一定の勢力を築いたものと考えられる。朝鮮の先進文化とは鉄の冶金、鋳造技術であり先のルートはその文化が伝わった経路であると考えられる。
ところで比売許曾の許曾(コソ)とは古朝鮮語で「神」の意味を持っていると考えられる。つまり、この「コソ」が入っていることは朝鮮系の神社であると考えてほぼ間違いない。
 この他にも「コソ」の付く神社としては東住吉区の阿麻美許曾神社、東大阪市の波牟許曾神社、又、渡来系神社の多い滋賀県近江国浅井郡の上許曾神社などがある。


(2)御幸森神社(ミユキモリ神社)桃谷3丁目10番JR桃谷駅から東へ歩いて約10分のところにある。まさに猪飼野の中心に位置している。先の比売許曾神社が新羅系であるに対してこの神社は百済系とされている。
古代の猪飼野には百済系の人々が多く渡来し文化を伝えた。猪飼野はかつて港として栄えた。船は難波と朝鮮半島をつなぐ唯一の交流手段であり、ここは当時の国際港であった。百済川(現平野川)の水運に恵まれた交通と物流の中心であった。御幸森神社はその猪飼野氏神を祭る神社であったと考えられる。
このような渡来人達の活躍を見るために第16代の天皇である仁徳天皇が何度も見にこられたことから御幸森と呼び天皇が腰をかけられたと伝えられる石もある。
実際このあたりは百済との関係を表す物が多く残されている。JR百済駅、バス停百済、南百済小学校などがその一例である。


(3)弥栄神社(ヤエイ神社)桃谷2丁目16番
 JR桃谷駅から東へ500mのところに位置する。祭神はスサノオ仁徳天皇であるが、以前は牛頭天王社と呼ばれてスサノオだけを祭っていた。
牛頭天王は頭の顔にした神様である。アマテラスの子ともでもあるスサノオは天上界を追い出された後新羅のソシモリに着く。朝鮮語で「ソシ」は牛「モリ」は頭を意味し「ソシモリ」で牛頭となる。つまり、首都の意味と解釈しても良いと思う。これから見てもこの地域と朝鮮との深いつながりを見ることができる。
弥栄神社となったのは明治になってからで現在は「ヤエイ神社」と読まれている。しかし、京都の八坂神社の祭神スサノオを祭っているのでヤサカ神社であることは間違いない。
朝鮮を植民地しようとしていた時代に朝鮮渡来の氏神を祭る神社は認められる余地がなかったからという説もあるがあり得る話だと思う。
又、明治末期御館神社がこの神社に合祀された。この御館神社は弥栄神社から桑津街道を南へ約500メートル行くと、左手に弥栄神社の御旅所(足の神様、茨 大明神)、右手に天理教会(御館神社旧地)がある。この御館神社は、仁徳天皇の 12 年、高麗の使者が鉄の楯と的を献上した際、仁徳天皇は群臣にこれを射るよう命じられた が、楯人宿袮一人が見事これを射通したので的戸田宿袮の名を賜ったという『日本書 紀』の故事の伝承地である。『大阪の名所旧蹟』昭和17年刊の「高津神社」の項に、 的祭は1月12日で、仁徳天皇猪飼野に的場を設けられた尚武の故事を偲ぶものであると記されている。なお、鉄の盾は、奈良県天理市石上神宮に残されている。


(4)鶴の橋跡公園(桃谷3丁目17)
 昔、このあたりに鶴が多く集まったことから橋の名が起ったとされている。ちなみに日本語の「鶴(つる)」は韓国語の「ドゥルミ」に由来していると言われているが、同じく韓国語の「チュル」に由来しているとの説もある。チュルとは紐(ひも)のことで鶴の首は紐のように細いところから鶴のことをチュルと言うようになったとも言われている。なお大阪にはたくさんの橋があるがほとんどは淀屋橋(よどやばし)、戎橋(えびすばし)のように(〜ばし)となっている。鶴の橋(つるのはし)のように「ばし」ではなく「はし」という名のつく橋は鶴の橋を含めて3つである。
あとの2つは反橋(太鼓橋)と原ヶ橋である。
 一説には、猪甘津橋の古跡ともいわれている。猪甘津橋は、日本書紀仁徳天皇14年の条に「猪甘の津に橋わたす」とあり、往古百済川に架けられたものと思われ、文献上日本最古の橋である。つるのはしは、新平野川の開削によって昭和15年(1940)廃橋となりましたが、碑のまわりの4本の石柱を記念のため保存したものである。
 猪飼野の地が「猪甘の津」と呼ばれた古代難波の国際港として栄え、古代難波の“幻の朝鮮国”百済国を開いた渡来人が上陸した港でもあったことを伝えている。
 上町台地の高津の宮から宮道(国道)が通じ、さらに河内・大和への交通のメインルートでもあったこの地に橋が架けられた。つまり、猪飼野の地が陸路・水路の要衝であったようだ。