近代の猪飼野 

 
 近代の猪飼野について述べる前に古代と近代の間には何の関係もないことを言わなければならない。古代に於いて日本文化の形成に多くの影響を及ぼした渡来人と河川改修工事のために渡日した朝鮮人が集団で居住した地域が同じであることは皮肉というほかはない。
 近代の猪飼野は全く違った成立の仕方をしている。はじめに記したようにここは現在日本で最も多く韓国・朝鮮の人達が住んでいるところであるが、なぜそうなったのかについて記述したい。
 1920年代に入ると大阪市在日韓国人の人口は急増し、1920年に約4500人であったのが1925年には3万人を超え、1930年には約7万人、1934年には17万人を超えるに至っている。

このように多くの朝鮮人が日本に来た背景には本国における農村経済の破綻がある。土地調査事業などによって土地を失った農民たちは生活の糧を求めて多く日本に渡ってきた。つまり、のっぴきならない生活事情のためであった。
 当時日本では第1次世界大戦後の軍需ブームによる好景気で日本国内の労働力は不足していた。そのために安い労働力を得るために朝鮮の各地から労働者を募集していた。
 1919年3月平野川改修工事が始まるとこちらの方が給料が高いということでこの地域に多くの労働者が集まってきた。とは言っても実際には低賃金で日本人らがしたがらないきつい仕事であった。
一般に朝鮮人労働者は日本人労働者の補充的な部分として導入され土方、日稼、紡績職工、雑役、仲土などとして働らかざるを得なかった。
 1920年代の初め頃から現在の猪飼野の原型ができ始めている。

 又、1923年2月には済州島―大阪の直行航路が開かれた。(この便船は君が代丸として有名である。)これによってさらに多数の朝鮮人が渡日することとなった。
 済州島は韓国の中でも厳しい自然条件にあるところで農地のほとんどは火山灰地で、たんぼはほとんどなく石が散在する畑ばかりであった。
 そうした事情も重なり特に済州島からの渡日者は多かった。又、猪飼野済州島出身者が多い理由として次のような説もある。①済州島が朝鮮王朝(李朝)時代に流刑地とされていたことから、朝鮮半島本土出身者による済州島出身者に対する差別感情、②済州島の本土とは違う風俗・習慣、これらのことによる済州島出身者と本土出身者との間の対立が原因となり、猪飼野済州島の人々の街になっていったと考えられる

 又、1948年には、アメリカ主導による南朝鮮単独選挙に反対する済州島民衆の武装蜂起に対し、米軍が武力をもって徹底的に済州島民衆を虐殺した事件があった。このような米軍の虐殺から猪飼野に逃れてきた済州島民衆がいることも、猪飼野済州島出身者が多い原因の1つであると思われる。それはともかく、 猪飼野にはすでに済州島出身者を雇う零細工場があり、風俗、習慣も共通している済州島出身者を定住させることになった。
 ところで、この猪飼野での生活は劣悪をきわめその下宿については、当時の朝鮮町については一戸当り平均18.2人、平均畳数は一人当たり0.5畳となっている。
 多くは平屋の長屋で朽ちかけたものであった。
 さらにこの地域は低湿で豪雨のたびに浸水した。朝鮮町に於いては家屋の大半は明治時代に建築された木造平屋建の長屋であり、例外なく不潔、湿潤を極めていた。水道は殆どが共同であり、共同の井戸は若干はあったが悪水で使用に耐えない状況であった。
 食事に至っては飯と塩と野菜で生きている。生存ぎりぎりの状態で、衣食住に於ける彼らの生活は囚人よりも酷いと言われた。
 仕事のない状態に置かれた者の中にはモルヒネ中毒に陥る者も。又、窃盗や博変に走る者もあった。