現在のコリアタウン

sinyoung2006-07-04


現在のコリアタウン
大阪でコリアタウンと呼ばれる場所は二ヶ所ある。一つはJRと近鉄鶴橋駅を中心とした地域であり、もう一つは生野区桃谷の御幸通商店街である。異なった歴史を持っている。
 まず、鶴橋コリアタウンから述べたい。
 店舗の数は七百軒あまり、大半は一般的な食品と衣料・雑貨などの店である。従来、食品の卸売市場として、または小売商が衣料・雑貨品を仕入れるための問屋街として発展してきた歴史がある。
 かつて鶴橋は何でもそろう街として隆盛をきわめ、朝早くから商売が営まれていた。
しかし、その後の様々な経済状況の変化により近年は街の様子も大きく変化してきている。
 今、鶴橋と言えば、焼肉、キムチを思い浮かべる人が非常に多い。実際、夜に近鉄鶴橋駅のプラットホームに立つと何ともいえない焼肉の臭いが漂ってくる。こうした焼肉の店が次第に増え、特に鶴橋西商店街には20数店の焼肉屋が集中するに至っている。
 又、近鉄線路のガード下と高架周辺には在日コリアンを主な客とする食品店が40軒近く営まれている。そこではキムチ、チヂミ等も人気商品となっている。
 キムチはもともと日本人がそれ程好んだ食品ではなかったが、近年の消費量の延びはすさまじく、今では漬物の中でキムチが最も多く生産されるようになった。こうした状況下でキムチの店が増えるのはごく自然の成り行きである。
 韓国・朝鮮の民族衣装であるチマチョゴリの販売もこの地域独特のもので、その華やかさには目を見張るものがある。しかし、これは最近の傾向のようである。チマチョゴリを売る店は昔からあったが、以前は在日コリアンが日常的に着ていたために、もっと地味な色であり、売場も反物を並べて置くだけで、他の衣料品と共に売られていたので民族的な雰囲気はさほどなかったと言われている。
 鶴橋がマスコミの取材を多く受けるようになったのは昭和50年代中頃からで、鶴橋の焼肉店の様子などが放映され始めた。それに伴って訪ねる人も多くなってきた。
 オリンピックが韓国のソウルで開催されることが決まると、その傾向は益々強くなり、鶴橋はもとより日本の各地で韓国物産展といった催しが開催されるようになった。それに伴い隣国である韓国に対する関心も高まりを見せてきた。オリンピックが開催された1988年頃には、すっかり韓国ブームとなり、鶴橋といえば日本の中の韓国というイメージが定着してきた。
今、鶴橋は闇市から始まった商店街といったイメージが薄くなり、チマチョゴリに代表されるように明るく、躍動的な印象を持って迎えられるようになってきた。
大阪を紹介した観光雑誌でも必ず鶴橋が取り上げられ、パワフルで元気あふれるエネルギッシュな街として扱われていて、幾つかの韓国料理店、各種のキムチの店、韓国独特の餅の店、チヂミの店、華やかなチマチョゴリの店などが紹介されている。又、朝鮮関係の書籍がとても充実しているところでもある。
冬ソナブームが始まる以前から明らかに日本人の韓国観は変わってきている。
今、鶴橋は民族色豊かな、力動的な街としての顔を見せている。
さて、次に猪飼野コリアタウンといわれる御幸通商店街について述べる。(桃谷3〜5丁目)
ここはJR鶴橋駅の一つ南隣にあるJR桃谷駅から歩いて10分の距離にある。地理的に猪飼野コリアタウンとは、御幸森神社から東の平野川と交差する所までの商店街(御幸森通り商店街)のことである。
鶴橋に比べれば交通の便はやや悪い。旧猪飼野のほぼまん中にあるこの商店街は、歴史的には鶴橋より古く大正時代のはじめ頃より始まっている。この地域は特に在日コリアンの多い場所であるが、戦前は御幸通商店街で店を構えていたのはすべて日本人であった。朝鮮人が店を出していたのは商店街の中の細い路地を入った場所で、当初30軒余りであり、同胞向けの食品店や日用雑貨店が営まれていた。これが朝鮮市場と言われるものである。
朝鮮市場が発生した原因としては、主に3つのことが挙げられる。
①日本人の市場から物が買えない朝鮮人が不便を感じ、簡単に自分たちの必要なものを購入したいという要請(日本人による朝鮮人差別)。
②朝鮮の食べ物、朝鮮の食べ物の材料などを手に入れたいという、朝鮮人の需要(生活的必然性)。
③工場で雇ってくれない朝鮮人の年配の女性が、自分が食べるために採ってきた山菜の余分を、少しでも家計の足しにするために売ろうとしたこと(経済的必然性)。年配の女性が、野や山から採ってきたセリやゼンマイなどの山菜をむしろの上に並べた露店を開き、細々と売っているという「市場」が、猪飼野に自然発生していったのである。
昭和の初期には日本人の店も朝鮮人の店も繁盛し、大変な賑わいであったようである。
昭和14年頃には、いわゆる朝鮮人市場には200軒余りの店が並んだと言われている。
戦争が激しくなると表通りである御幸通商店街の日本人経営者は疎開を始め、商店街には空き家が増えていった。戦後、その空家を手に入れる朝鮮人が増え表通りの御幸通が朝鮮市場に変わってきた。
今では民族色豊かな商店街となり、多くの日本人もつめかけている。店によっては長蛇の列をなしているところもある。
最近では「生野コリアン」の通称が用いられ「KOREA TOWN」と書かれた韓国風のゲートが造られている。
鶴橋に比べれば、旅行ガイドブックで紹介されることは少なく、したがって地味で知名度は低いが着実にコリアタウンとしての発展を遂げてきている。