文化観光について


(1)フィールドワークにおけるゆかりの場所 猪飼野は不思議な町である。古代と近代・現代が入り混じった町である。
古代、日本と朝鮮半島には深いつながりがあった。大阪の先進文化は朝鮮半島を経て伝えられた。特に日本と百済との関係は深いものがあったことが知られている。
ここ猪飼野は特に百済系の人々が多数渡来した場所で国際色豊かな町であった。
ところが明治以来は日本の植民地政策により状況が一変する。先に述べたように朝鮮において行き場のなくなった人達が様々な事情でこの地域に定住するようになった。そこにはかつての先進文化の面影は全くなく、最低限の生活を余儀なくさせる場所であった。
これからは共生の時代である。みんなが生きやすい社会を作っていかなければならない。
日本人も朝鮮半島の人々とは過去にこのような素晴らしい関係があったということと同時にこのような悲しい関係があったということも学ばなければならない。
そうした理解があってこそ未来に向けての共生関係を築いて行くことができる。
そうした意味でフィールドワークに於いてゆかりの場所を訪ねることは意味のあることである。以下にその場所を紹介したい


猪飼野新橋(鶴橋5丁目20番)
新羅 金冠(国宝第87号)
 猪飼野の名は町名変更によって約30年前に消滅したが猪飼野の名を付けた新橋がある。この橋は1987年の平野川改修に際し架け替えられたものである。橋の親柱は仁徳天皇にちなんで前方後円墳の刑とし、欄干には日本書紀にある「小橋」すなわち「鶴の橋」のくだりの原文を刻んだ円盤が配置され、欄干の支柱は韓国独特の勾玉がデザインされている。
この橋は猪飼野の地が韓国半島との善隣友好の場所であり、近現代には在日朝鮮人が多く住み、今日コリアタウンを発信源とした共生の町へと変わりつつあることを伝えてくれている。
 なお、この橋は行政機関である大阪市の粋な計らいによって作られた橋である。



②観音寺民衆仏教の寺として1988年開山され、1996年に現在地に移転される。
 在日コリアンにとって墓、納骨、葬儀の方式、祭祀は極めて重要な問題であり、このことで頭を痛めている人は多い。例えば、納骨については韓国ではお骨を家に持って入れない。お墓があっても墓に入れるまでお骨を何処に置けばよいか悩むこととなる。又、韓国式の葬儀をし韓国の御経を聞かせて送りたいという気持ちがあってもできないのが事情であった。しかしここではすべて韓国式に葬儀や法要、祭祀がとり行なわれ納骨も可能となっている。
 又、結婚式も民族の伝統にのっとって行なわれている。



③小説「血と骨」の舞台 (作家の実家・東成区玉津2丁目) 第11回山本周五郎賞を受賞した梁石日氏の小説「血と骨」の舞台は猪飼野であり、比売許曾神社の西手、大阪で最も早く「朝鮮町」が形成された地域である。ちなみに、「血と骨」は大正末期、一旗揚げようと済州島から渡ってきた著者のお父さんの物語。己の肉体のみを信じ、徹底した自己中心主義者。すさまじいまでに孤独に生きた男の物語である。



④参尊寺 朝鮮寺(韓寺)の一つである。
 在日コリアン、日本人が共にこの寺に参り、祭事を行なっている。
 在日社会では宗教儀礼が正しく伝承されていないことから法事などの風俗習慣についての指導も行なっている。
 住職によれば法事の時に使う紙の位牌の書き方も間違ったものが多いという。
 又、この寺には廃止された鶴橋斎場にあった阿弥陀地蔵が祀られている。
 この地蔵は猪飼野に生きた朝鮮人の血と涙をながめ死を弔い続けた地蔵である。
 なお梁石日氏の小説「血と骨」の映画化にあたって葬式の場面の撮影などこの寺の住職
や檀家の人達が協力している。



疎開道路
 鶴橋の商店街の東端を南北に走る道幅約10メートルの道路がある。これは戦争が激しくなった昭和19年空襲による被害を避けるために建物を撤去(建物疎開)させて作ったことからこのように呼ばれる。
 しかし最近では火災による延焼の防止と共に戦時中の物資のスムーズな輪送路を確保するための軍事道路であったことも指摘されている。
 火災ということであるが鶴橋周辺は実際には空襲を免れている。
 なお疎開道路という名前は今も通用している。




⑥鶴橋警察署跡と民族運動家金文準
鶴橋警察署は今は生野警察署と呼ばれています。昭和18年4月、生野区の誕生とともに「生野警察署」と改められ現在に至っています。
歴史的な変遷は次の通りです。
明治 45年4月1日 平野郷警察署 今福分署 巡査部長派出所
             (東成郡鶴橋町大字東小橋)

大正 2年4月1日 平野郷警察署 鶴橋分署(鶴橋小学校の一教室が仮庁舎)
             (東成郡鶴橋町大字木野379)

大正 2年12月21日 (本庁舎完成)平野郷警察署 鶴橋分署 
(東成郡鶴橋町大字木野131)
            
 大正 3年3月   鶴橋警察署となる。

 昭和 9年9月   東成区勝山通り8丁目40番地に庁舎を新築(大阪府
             農学校跡)

 昭和 18年4月   生野警察署となる。


ここで金文準さんについて少し説明したいと思います。
金文準さんは1893年明治26年)済洲島に生まれ、島の農業学校を首席で卒業、水原の農林専門学校(ソウル大農学部の前身)に入学しましたが経済的理由で中退し、済洲島に戻りました。
済洲島では島の農民や青年たちのために私設の夜間学校を開いていましだが、三・一
独立運動のときには農民たちを指導して運動に立ち上がりました。
 その後日本に渡り労働運動にたずさわるようになりましたが1930年、ゴム工場労働者のゼネスト指導中に検挙されこの鶴橋警察署での獄中生活を3年5ヶ月間送りました。そのあと釈放され、民族的な立場に立って在日朝鮮人の人権・生活権を守ろうと「民衆時報」という新聞の発行を行いましたが特高警察によって逮捕され、激しい拷問によって衰弱し釈放後死亡しました。この時の拷問は勝山通りにある現在の庁舎(生野警察署)で行われたと思います。
 当時の拷問の過酷さについては様々な記述がありますが釘を無数に打ち込んだたるの中に人を入れて転がすといったやり方もあったと聞いています。本当にひどい時代だったと思います。

※以下は「猪飼野地域のあらまし」に記している。

・比売許曾神社
・御幸森神社
弥栄神社
・鶴の橋跡