足代 健二郎氏

sinyoung2006-08-01

猪飼野にこだわりをもって、いまなお奮発している「あじろ書林」代表 足代健二朗さんをインタビューした。
1942年、大阪市猪飼野生まれで猪飼野育ち。もと神道史学会、式内社研究会会員。郷土誌いくの刊行会・猪飼野郷土誌・玉造稲荷神社誌編纂委員。「司馬遼太郎の原点―猪飼野新世界新聞社」そのほかを雑誌に掲載。「松下幸之助起業の地」顕彰会事務局長。目下その記念誌および御幸森天神宮1600年記念誌・巽神社合祀(ごうし)100年誌編纂中。
(問)いつからいつまで猪飼野に住んでいましたか。
(答)猪飼野生まれの猪飼野育ちですわ。
(問)猪飼野の地名変更についてどう思いますか。

(答)そやなあ・・・
たとえば大阪の言葉「なにわ」と言って今も使ってますわ。なにわっ子という言葉もありますがな。今猪飼野の地名がのうなっても実際に言葉として使ってるし人々の記憶の中には残ってますわ。いつまでも消えることはおまへん。御幸森神社も頭に猪飼野と言う言葉を使ってるしこの言葉が全くのうなったら神社も困りまっせ。
(問)あ、それはそうですね。昨日御幸森神社に行ったら確かに神社の近くの家の壁に初詣の案内としてその言葉が頭に使われてました。
ところで、この間、もともと百済と関係の深い御幸森神社の中に王仁博士の歌碑を作って欲しいと言う話を聞きましたが、どういうことかもう少し詳しく話を聞かせて下さい。
(答)猪飼野は古名を百済野と言いましたんや。ここを流れる平野川百済川と言われた。
この地を愛した国学者歌人折口信夫釈迢空)ちゅう人がいるんやけどあんた知らんわなあ。日本では凄く有名なんや。その先生が百済野、猪飼野を詠んだ歌を幾つか残してるんや。コリアタウンに隣接した猪飼野氏神、御幸森天神宮は仁徳天皇を祀ってることは知っとるやろ。仁徳天皇がこの地に住んでた百済野の人達の暮らしぶりを見るために行幸されたのが御幸森の地名の起こりやゆうこともあんたやったらよう知っとるはずや。そこで僕は王仁博士の歌碑を神社の境内に建てたら面白いと思ったけど東高津神社にすでにあるのでこの考えはやめた。今はさっき話した折口信夫が“猪飼野”“百済野”の地名を詠んだ歌の歌碑を建てたら面白いのとちがうかと考えてるところや。まあ、あんた折口信夫知らんから面白いと思わんかも知らんけどな。
(問)歌碑ができたら本当にいいですね。
(答)あんたが先頭に立ってその運動をしたらどうや。あんたのような留学生がしたら協力してくれる人もいっぱいいるで。もちろん僕も喜んで協力する。